杏梨 ピアノソロライヴ  2018/07/26 @高円寺カサエスペランサ

杏梨 ピアノソロライヴ  2018/07/26 @高円寺カサエスペランサ 20:00start

1.Tango de Jerez
2.Gallardo
3.Semblanzas de in Rio
4.Guajira
5.Malagueñas

1曲目はTango de Jerez(タンゴ・デ・へレス):タンゴ
arturo pavon(アルトゥーロ・パヴォン)のピアノソロの曲からお届けしました。

歴代のフラメンコピアニストでは1番古株とされるパヴォンは、カンテ歌手であるManolo Caracol(マノロ・カラコール)の伴奏を多く手掛けています。伴奏スタイルのピアノが多くありますが、数曲ソロも出しています。

パヴォンはniña de los Peines(ニーニャ・デ・ロス・ペイナス)の甥でもあり、そのペイナスの歌い方に演奏が似ています。

今回、杏梨がソロピアノライブで演奏した、Tango de Jerez(タンゴ)は、現在タブラオでの公演などでよく演奏される、tiento(ティエント)の、伴奏のスタイルと同じです。今回、曲名をtientoではなくtangoとしたのは、パヴォンが活躍していた当時は楽曲ごとの呼び名が今のように細かく分かれていなく、ティエントも全部タンゴの部類に入っていたと言われているために今回はそれに倣った、とのこと。

参考リンク
arturo pavon(アルトゥーロ・パヴォン)


Tangos. Arturo Pavón. 1997

Manolo Caracol(マノロ・カラコール)


Manolo Caracol (cante), Arturo Pavón (piano!) & Melchor de Marchena (toque) – Zambra / cc Español

niña de los Peines(ニーニャ デ ロス ペイナス)


Pastora Pavón LA NIÑA LOS PEINES Tangos flamencos "A mi mare abandoné"

2曲目は、Gallardo(ガジャルド):ルンバ
パルマに松島かすみさん、小松美保さんを、パーカッショニストに容昌さんを迎え、
日本にもよく来日している世界的に有名なフラメンコアーティストDavid Peña Dorantes(ダビ・ペーニャ・ドランテス)の曲を演奏しました。

ドランテスはジプシーギタリストのペドロ・ペーニャを父に、歌手のレブリハーノを叔父に持つ血統・由緒正しい、レブリーハのフラメンコ一族出身です。

通常フラメンコの楽曲は口伝で伝えられるため、楽譜が存在しないので、ピアノで演奏する際はまず楽曲を聞いてそれを起こすという作業から始まりますが、杏梨が2016年にセビージャに行って彼のレッスンを受けた際、ドランデスから貴重な楽譜を頂いた、とのこと。その中から今回は2曲が演奏されました。

1998年に爆発的にヒットした彼のファーストアルバム、「Orobroy(オロブロイ)」の中からお届けしました。

参考: Dorantes - Orobroy


Dorantes - Orobroy

3曲目、Semblanzas de in Rio(センブランサス・デ・イン・リオ)
これもまた同じく、ドランテスのアルバムOrobroyの中から、彼の楽譜の協力もあり、今回の演奏が実現しました。

参考リンク: David Peña Dorantes


SEMBLANZAS DE UN RIO

4曲目 Guajira(グアヒーラ)

今回のライブの目玉、実はこのグァヒーラです!

杏梨は今回、1900年初頭のSPレコードの音源El Mochuelo (エル・モチュエロ)聴いて研究して作った、とのこと。

モチュエロは、アントニオ・チャコンとほぼ同年代で古い時代のフラメンコの中でSPレコードを非常に多くの録音を残した売れっ子です。

演奏は、軽快な容昌のボンゴによるソロパートからはじまりました。

時にユーモラスな駆け引きや遊びの要素も織り交ぜながら、ピアノとパーカッションのセッションが繰り広げられました。1900年代初頭の古いフラメンコスタイルであるグアヒーラの魅力をたっぷり味わえる独自の構成です。杏梨は「嘆きや悲しみを表現するのが多いフラメンコの曲の中で、このグアヒーラにはジプシーの明るさが際立つ。それを表現したかった」といいます。

参考: ANTONIO POZO EL MOCHUELO CANTA POR GUAJIRAS


ANTONIO POZO EL MOCHUELO CANTA POR GUAJIRAS

5曲目 Malagueñas(マラゲーニャ)

マラゲーニャはフラメンコの古い楽曲ですが、「歌い手によって全く雰囲気が違うのでピアノ用に編曲する際はとてもやりがいがある作業だった」という杏梨。

19世紀末から20世紀にかけて活躍したAntonio Chacon(アントニオ・チャコン)の唄とギターの楽曲をピアノの曲に起こしました。

「フラメンコらしい音を追求する」ために、ドランテスのアドバイスを受け、「今回のライブは電子ピアノということで、残響音(リバーブ)を極力抑えるなど工夫した」とのこと。

参考:Antonio Chacon Malaguena


ANTONIO CHACÓN: "si preguntan por quién doblan", 1925

はじめての音を味わう果てしない高揚感と、耳なじみのあるパロが全く違った印象として現れ、杏梨の緻密な作業と少年のような開拓者魂がそこに同時に存在してる、奇跡のような時間を味わうことのできた貴重なライブでした。

【レビュー:平澤晴花】

杏梨/今後の出演予定
9/2 DANZARTE スペイン舞踊公演 @中野zero小ホール
9/29 Nuevo viaje de piano ピアノフラメンコデュオライブ @南青山ZIMAGIN

5歳保育園児にKUMON(くもん)こわい。谷川俊太郎を読んで眠れなかった私が、文字を教えにくい理由

KUMON(くもん)こわい

子どもが5歳になった。
通わせてる保育園のクラスメイトの何人かが、公文教室に行かせて文字を習っているらしい。
保育園は厚生労働省の管轄なので、文部科学省下の幼稚園とは違って、ひらがなを強制的に教えたりしない。家庭によってはそれが教育格差として映り、コンプレックスにもなる。特に、出版や教育に関係するお仕事をしている保育園パパママはこぞって「先ずは公文」という向きもあるようだ。


書き言葉、こわい

一応私も文字を書いたり削ったりする仕事をしているので、書き言葉は飯のタネだし、日々読み聞かせている絵本だって、子どもが自分で読めるようになればもっと世界が広がるだろう、とも思っている。

でも、それと同時に、書き言葉以前の膨大な体験、ナラティブに訴えかけるような出来事、所謂原体験が、自分自身の経験を編んで表現する時のロジックに作用したり、コミュニケーションの表出に関係するんだということも理解している。

要するに、「ああ面白いな」とか「ああ、怖いな」とか「ああ、綺麗だな」と思う経験を、書き言葉以前の自分の文脈で考えたチャネルが多ければ多いだけ、その人にしか現わせない何かが生まれるんだろうな、と。それは私自身の経験則での手ごたえに併せて、「この子頭いいから、その辺の仕掛けは充分気づいてやり遂げていくんじゃないか」という絶大な親バカ方面からも来ている。

そうは言っても日々意識高い方面からの圧力はある。しかし、自分の子どもだから納得いくように丁寧に付き合ってみたい、流されたくないし長いものに巻かれたくない、余白を残して自分の頭で考えて接したいし、その境界線をはっきりとさせておきたい。彼がいずれ世間に出た時、私が親として誇りに思ってもらえる要素なんて、その結界の張り方のセンス以外何もないんだから、という慕情も、結構ある。

 

谷川俊太郎、こわい

 もう、先々月の出来事になるが子どもと「谷川俊太郎展」

http://www.operacity.jp/ag/exh205/

を観に行った。

『かっぱかっぱらった』の詩が、音声で流れたり、暗がりで子供と手を繋いで、ちょっと踊ったりしてとても楽しかった。

谷川俊太郎は学校の教科書にも載っていたような気がする。

そして、なにより、私にとっては「書き言葉こわい」(まんじゅうこわい的な意味合い)のエポックがメイキングした作品を書いた詩人No.1である。

出会いが早すぎた、谷川俊太郎『みみをすます』

会場には過去の著作が沢山置かれてあり、その中でも黄色い派手な装丁でひときわ目立っている『みみをすます』という詩集をみつけた。

この本は私が小学2年生の時に買ってもらった本。会場の谷川の年表を見ると、3人目の奥さんを娶った直後ぐらいに発表されたということを知った。当時51歳。

結論から言うと、このひらがなばかりで書かれた詩集『みみをすます』は、小学2年生には刺激が強すぎたのである。

本の背表紙には「小学校高学年から」と書いてあるにもかかわらず、買ってもらったその本を思わず読んだのだ。私の親だってそんなたいして悪気はなかったのだろう。しかし強烈な覚醒剤だった。

数行の詩が、少女を朝まで眠らせなかった話。あるいは乞食の性欲について

当時、私は詩を読んで一睡もできなかった。怖くて怖くて、それでも、そのひらがなの羅列を読むことが抑えられなくて何度も目を通した。目をそこから外しても、ビジュアルがどんどんおどろおどろしくなって、休もうとしても全然休めない。白々としてくる朝の光のことを今でも覚えている。

今大人になって分かったこと。

その詩集には、「乞食の性欲」(※乞食/こじきの表現は谷川の該当書籍ママ)が綴られていたこと、その乞食とは紛れもなく51歳の谷川自身のことが詠まれていたこと、51歳で再婚した、彼のリビドーが、ひらがなばかりの詩に封じ込められていたこと。少女の私にはその事実は受け入れがたい内容であったので、身体が拒絶したのだということ。

そしてなにより、書き言葉の魔力がこの世にあるのだということ、用法用量を間違えると健康に非常に悪い、ということを改めて思い知った。


書き言葉は、時に劇薬だ

会場で子どもと手を繋ぎながら、さまざまなことを考えはしたが、ただひとつ、やっぱり「書き言葉こわい」それだけは確信できると思った。私の中では、割と大切なことのようだ。

谷川俊太郎展に行く前は、幸い、よくしゃべる子なので、ロジックについてはそれほど心配していない、というところが、公文式をさぼってもいいかな、という最大の言い訳でもあったが、やはり書き言葉は劇薬だ。キくのです、思考に、そして大げさに言えば人生に。谷川を媒介にして、確信が持てた。

なので、さぼっているわけでも、意識が低いわけでもなく、我が家はこの数か月の就学前の時期を味わっている、のです。真面目にみんなそうすればいい、と心の底から思ってる。

お酒とたばこは20歳になってから。書き言葉は6歳になってから!

 って。(…まあ、何かのきっかけで、あっさり折れるのかもしれないけど!)

<支援者と、支援を受けるひとのあいだ> 松澤くれは プロデュース 舞台『わたしの、領分』

 

watashi-no-ryobun.themedia.jp


紡ぎ出されるのは、療育センターで働く職員と、そこを利用する子どもとその家族の物語。

「療育」という言葉も、ひとによっては聞きなれない言葉かもしれない。医療と保育・教育を掛け合わせたことばであり、「療育センター」は全国各地に存在する。心身の育ちに特性のある、いわゆる発達障害や知的障害のあるひとの発達を促すために、専門家がケアや教育にあたっている場所だ。

発達障害」は近年その存在がとりだたされ、話題になることが増えた。発達障害に関する書籍やメディアも多く世に出されている。発達障害のあるひとに対する理解が浸透し、当事者へのケアも広がり出している一方、このケアする側、いわゆる支援者と呼ばれる人たちへの注視のされ方も変化している。

個人的な話になるが、不安障害によるパニック発作を抱えている友人がいる。電車に乗るときは安定剤の携帯が欠かせない。『わたしの、領分』を観終わって、ふと、彼女が訥々と「支援者」について、歯に衣着せぬ物言いで、話をしてくれたのを思い出した。

「”支援のなかの人”(療育/教育/福祉業界の従事者、スポンサー)って、言い方はアレかもしれないけど、”ダウン症の子は天使だから〜♪”とか、何のためらいもなく平気で言えてしまう人達でしょ。別にその類の人が支援することがおかしいよって話をしたいわけではない。無視して手も差し伸べない人より500倍ぐらい有り難いことだし。というか、ダウン症は天使って言ってるおばさんおじさんの排斥をきめ込んだたら、支援者なんてこの世からほとんどいなくなると思う…ただ、あまり語られない事だけれど、支援される側もそのカラクリってのを薄々気づいてはいて、薄皮一枚の倫理でその均衡が保たれているということ。ジレンマがあるとすればそこ」と。

この理屈にピンと来るひとは、この「わたしの、領分」の紡ぎ出すストーリーを自分ごととして観れるのかなー、それが私の率直な感想だ。


松澤くれはの世界は、女性性が色濃く出ている。彼自身は男性の身体を持っている演出家だが、そのことに対して非常に自覚的であるし、面白がる領域の閾値、そして他者性を持って身体を外化させ、いざモノローグを語らせる時には、この女性性が深く関係している演出家だと思う。松澤さんへのインタビューでも、「自分の生理的な身体から脱して、俳優の個と向き合うためには、男性のキャラクターを男性に演じさせようとするとどうしてもダメ出しもキツくなり、俳優との自律性を保てない時期があって苦しかった。それを変えてくれたのは、違う身体をもつものとの密なコミュニケーションからの身体性の探求だった。そこから道が開けた」と話していた。

h-navi.jp

なので、今回の『わたしの、領分』で、療育施設で働く心理士・萩野が、仕事とプライベートの価値観の狭間で揺らぎ、自分自身の妊娠出産で悩んでもいるという実存を抱えるという筋書きが、物語、そしてセリフに身体性を持たせるうえで、非常に効いてくる。
療育施設で、萩野が担当するクライアントのA君の母親(発達障害の子を持ち療育に通わせながら、下の子を妊娠し、身体的にも精神的にも非常にしんどい状況を抱えている)と向き合うシーン。ヒステリックな母親にとうとうナイフまで突きつけられ、「はっきりしろよ!治るのか治らないのか。おなかの子まで抱えてる私の不安があんたにわかるのかよ」と凄まれ、命の危険を感じながら、萩野が言葉を探すシーン。ふと今まで冷静沈着で語ってきた「支援者」の顔を脱ぎ、大声で自分の辛さを漏らし、萩野自身の心情を晒し始める。
まるで「子宮という異物を抱えたエイリアン同士」の、内臓から発せられることばの数々…。あの空間はアドリブなのかもしれない。それなのに物凄く濃密だった。そこまで入り込めたのも、松澤くれは氏には、実は子宮があるんじゃない?と思う位に、それまでの台詞の選び方、演出があってこそだ。このラストシーンのリアリティを実現可能にした松澤組のひとたちの底力は計り知れないと思う。

 

発達障害児を、形態模写という形で舞台に立ちのぼらせ、私たちの前に提供しているというのは、社会的意義があると思う。(このお芝居の座組のスタッフもその事に気づいていて、今まさに実際に動き出している様である。)そもそも3dでこの世界を描こうとする事が蛮勇だし、抽象より具体、より緻密なデッサンの様な描き方で目の前にある事が圧巻である。場所と時を変えて様々な人の目に触れるべき作品だ。

正直この形態模写を観て、ショックを受ける人もいるだろう。そして「ああ、障害名がつくってこんなレベルなんだ。うちの子はココまでじゃないから大丈夫だ…。でもこりゃキッツいなあ。親父さんがキレるのも分かるし、あのお母さんが宗教チックなセラピストにすがりたくなるのも分かるよなあ」と、溜飲を下げ、ワイドショー的に、気楽に見ようとする事も出来ると思う。言って仕舞えばそれだって充分価値がある。そして、翻って自分自身の残酷な一面(隠れレイシスト的なもの)に気がついたりするのもそれはそれで発見だろうし、この文章の冒頭に書いた様に、「支援者と支援される側の薄皮一枚で保たれている不均衡」について想いを巡らすひともきっといることだろう。

 

いま小中学校の教育現場では、インクルーシブ教育が叫ばれ、導入されつつある。それと同時に、発達障害の支援を受ける側の人たちは「私たちを教材にしないでください」というイシューも、ポロポロと出始めている。その人たちに対して、支援する側は「そんなつもりではない、あなたの事を思って」という。それしか返事はない、とばかりに。このすれ違いはどこから来るのか?ダイバシティーに対する認識のずれのようなものがいろんなところで起きている。

<要するに、それは教材が足りないって事だよ。作ればいいじゃないか其れを!>

舞台「わたしの、領分」にはそんなパワーが溢れている。みんな知りたいし、ほんとは一緒に考えたいし、お前はお前俺は俺、私とあんたは違うって、時々弄りながらも、仲間としては「やっていく気持ち」携えて、いい感じで居られる社会。そんなの理想郷かもしれない。それでも夢は実現させたい。人間が進化する為の装置が演劇というコンテンツにまだまだあるんだ、ありありと見せてくれた舞台だった。

 

 

 

 

 

勝ってこいよと勇ましく。そして孫娘には恋愛至上主義だけが残された

Web上に書くのは勿体無いな、と思うほどの、素敵なエピソードというのがある。

大抵の人にとってそれは自分の恋愛の事だったりするのだろうが、私の場合、一緒に同居していた明治43年生まれの祖父の恋愛の事だったりする。

 

もう亡くなってだいぶ経つので、そろそろ色んなことを忘れないように書き留めておかなきゃいけない、お爺ちゃんが語ってきかせてくれたエピソードについて、調べたり検証する機会を持ちたいと思っていたら10年以上経ってしまった。(その間、モノローグで日常を語りえる時間は、気持ち的にほとんど無かった、という言い訳はここに留め置いて…)

祖父は明治生まれであるのに、恋愛結婚を遂げている。そして、51歳の若さで祖母を亡くしたけれども後妻をとらず、92歳でその生涯を閉じるまで、信仰と創作と読書と園芸と孫の世話をしていた。その一緒に過ごした日々を思うと今でも懐かしくて泣きそうになるが、私自身のセンチメンタルとは別に、祖父の恋愛があまりにも豊かで、そこに対して平伏すような気持ちになる。

 

祖父と祖母はすごく遠い親戚だったようで、何かそういった大きな親戚の宴会かなにかで祖父が一方的に祖母を見染め、ルックスが抜群だった祖父(身長185センチ)の押しの一手で結婚に至ったと聞いている。とにかくその辺の見染めた年齢のことなどはわからないけど、一目惚れだったのだろう。大抵お見合いで結婚相手を決める時代だっただろうに、強気なものである。


戦地に赴き、海軍兵としてロシアなどにも出征し、帰国してから母と叔母が産まれるが、その間3人の子供を亡くしている。
その間ずっと、ぎりぎりな気持ちを確かめ合うように、祖父と祖母は短歌の創作活動を楽しんで居たようだ(確か伊藤整主催の同人誌?)。同じ趣味があったとはいえ、作風や趣味趣向、評価のされ方というのは祖父と祖母ではまるっきり違っていたらしい(これもいまいち残された資料がないのでふわっとしている)。

 

祖母には創作上、慕っていたひとがいたという。自分の夫とは別にプラトニックに想っていたひとというのが居た。ーこのことを祖母亡きあとにうまれた私が知り得るのは、他でもなく祖父から面と向かって聞かされて、のことである。

話を聞く限り、祖父は明らかにこのプラトニックな妻の恋慕を面白がっている所があり、兎に角それをエネルギーとして居た所があるようだった。きっと時々は真面目に嫉妬したりもしたのだろう。


祖母が早くに亡くなった、と書いたが、肺癌で闘病生活も苦しい中、祖父は祖母に一目逢わせてあげなくてはいけないひとがいることをと即座に思い出し、他府県にいるその人に初めて連絡を取った。

…他でもなく、同人の君だった。実際の顔など見たこともないだろうに、その祖父のサプライズプレゼントに祖母は一瞬で気が付いたという。きっと、さほど言葉は交わせない程に感無量だっただろう。

なんとか、この世にいる間に逢えた。しかも、夫の差し金で。祖母は幸せだったと思う。

 

 

アドルフ・ヴェルフリ「二萬五千頁の王国」

 

https://m.youtube.com/watch?v=e80bwWfwgnIm.youtube.com

この一見俗なTV番組の、ポップでエッセンシャルな菊地成孔の解説によると、アウトサイダーアート(絵画などの)は①所謂「業界」にいる、「教育」及び「資格」を持つ人では無いひとたちの芸術 ②精神病罹患者 の芸術 という2本だてだという。
ヘンリー・ダーガー、ミンガリング・マイクを引き合いに出して、その面白さを解説してる。ダーガーのペニスを付した少女の絵も、マイクの架空レコードの話も、取っつきやすく印象的だ。ダーガーに関しては知ってる人も多いだろうし、絵も蠱惑的な題材が多いので、やっぱりこの世界のアイドル的な存在、というは間違いない感じがする。


それで、表題のアドルフ・ヴェルフリだ。


菊地氏の分類で言えば、完全に②にあたる作家で、31歳からずっと精神病院のなかで製作していた。私も、数年前都内で開催された「アール・ブリュット展」でペライチの彼の作品が陳列されていて、それで印象的だったので、絵と名前を覚えていた。

今回の展示で、彼の作曲した音楽まで聞ける、というので楽しみにしていた。

結論から言えば、実は作曲した曲の演奏は期待はずれだった。もっと長回しで聴けると楽しみにしていたのに、ちょっとしたバイオリン音のパッセージが会場のスクリーンに映し出されるdvdから漏れ聴こえるだけだった。その映像作品はヴェルフリの生い立ちー里子に出された農場の風景ーが繰り広げられたのち、ヴェルフリが壮大に妄想していた世界観をまんま引き受けて具現化し立体の作品にしようというプロジェクト(後の世代の作家たち)が、ばびゅっと花火を放って王国を立体化させる映像に移り変わっていく。それとクロスオーバーさせて、単なるエンディングBGMとして楽曲が使われていたので、ちょっと残念と言えば残念だった。

音の作品で一番良かったのは(といっても2つしかないのでその残りのひとつだが)未完のうちにおわったレクイエム、埋葬行進曲だ。これは映像作品を作る人にヴェルフリへの愛情が感じられてとても良かった。淡々とドイツ語で何か韻を踏んでいる、しかもいい感じに何も考えず奇を衒わずな女たち2、3人のユニゾンないしパラフレーズで、正確には音楽といえるか定かではないが、私には完全に音楽に聞こえた。それは、子供の頃親戚のお通夜で何度も何度も繰り返し聴いて、だんだん気分が良くなって寝てしまった無常念仏にも似て、僅か14分の映像作品に納められているものたちがこちら側にグイグイ伝わるように仕掛けられており、時間を忘れた。

 

死ぬことを意識し、美というものを感じられるからこそ人間らしい振る舞いができる、と何かで読んで、その事を思いながら観ていた。ヴェルフリの人生は平たく言えばとても不幸な生い立ちで、精神病も気質もあっただろうにせよ社会的な要因でかかっているようにしか思えなかった。当時の政治状況とドイツというお国柄を併せて、わかる範囲の想像力で良い方に考えても結構いっぱいいっぱいになる。

 

なので、ヴェルフリに、獣と人間の境目の何かをみるような想いが過って、それが果たして残酷なのか好意的なのかと言われれば絶対に後者なのだけれど。

 

仏教芸術に曼荼羅があるが、ヴェルフリの作品がそれと似て来ちゃってるのも恐らく偶発的にそうなってるのだろうし、スエーデンボルグの卵型の曼荼羅に代表されるように、ヨーロッパ人が描く曼荼羅はアジア人の私達にはちょっと笑いを誘うというか、ああ全部お釈迦様の手の内にあるんじゃないかやっぱりな三千世界だからねという良からぬ妄想まで許してしてしまうところがある。シリアスなトーンの展示会場で唯一笑える部分はそこかもしれない。

 

図版は購入した。いつか家人の誰かがもう一度ページを繰る日もそう遠くないだろう。

だけど暫く、あのレクイエムを頭の中で反芻させて、棺桶の蓋を閉めてやりたい。だから本は開かない。レクイエムの音が遠ざかったら、また二萬五千頁の一部を紐とこうと思っている。

 

 

夫の断食道場ログ ー変性意識に全く興味がないひととの円満会話術

大型連休にふとしたきっかけから、夫を4泊5日の断食道場に送り込む、という事をした。
送り込むといっても、体の具合が悪く、万策尽き、一縷の望みで断食に賭けたとかではない。

最近の家族の健康をいろいろ考えてみた答えだった。

ちょいぽちゃの夫のダイエット諸々に埒があかないように見えていたし、彼の持病のアトピー性皮膚炎もそんなに良くなっている感じもしないし、というのが主な理由。
また夫の健康を思いやることとは別に、私自身の精神衛生を保つため手を打ってもいい時期が来ていた。それは単純に季節性の何かで「ゴールデンウイークは家族でずっといると酷い喧嘩をする」という、夫と連れ添う前の生活の何かしらのトラウマがあって、そのアラートが頭の中を埋め尽くして大変な感じになっていたので、手を打たなきゃいけないという強迫観念みたいなものが押し寄せて来てそれに従った。だから特別夫に何かに不満が爆発しそうだったからそうした、というわけでは無い。
実際、夫がいない2LDKのマンションはガランとしていて、一瞬寂しくはあったけどすぐそれは忘れた。子どもと海に行ったり公園で遊んだりしていると、別にワンオペ育児の苦しみと言うよりも「息子とずっとデート」みたいな蜜月を楽しんだだけで、「これは三角関係の恋愛が着地したのに近い状態なのか」と思う位に気持ちは非常にスッキリしていた。
なので、ほとんど夫のことは忘れて1日目が経過。無事到着した事だけ確認した。2日目は気が抜けてLINEスタンプで食べ物の図柄のものを無自覚で送りつけ、後で懺悔するなど。3日目はさらに気が抜けて、グループチャットで食べ物のあれ食ったこれ食った写真を夫と関係ない文脈でチャットメンバーに送りあっているなど。ログを辿ると私の悪妻ぶりが目につく。

子どもは子どもで「だんじきどーじょーはいつおわるの?」と淋しそうにしていて、「とーちゃん帰って来てからごはん食べ始めるんだ!」といってきかない日もあったくらいで、夫への執着心と愛情の深さは、逆に私の方が恥じ入ってしまうくらいだった。

 

今回夫を向かわせたのは神奈川県の温泉のある保養施設。一定断食用の人参ジュースの提供、健康診断をするスタッフ、医療との連携などあるが、ヨガ道者が説教をしたり、瞑想や運動のプログラムが組んである施設ではない。値段も一泊1万円以内で、予約も取りやすく、スピリチャルにはなんの興味もない夫にとっては逆にハードルを下げたようだ。
とにかく朝起きて、個室のドアの前に置かれた人参ジュースを飲んで、昼間は読書をし、お散歩コースを徘徊し、帰って来て昼寝をして、定刻にまた人参ジュースを飲んだりして午睡して、目覚めたらまた読書といった生活だったらしい。夫から送られて来た写真は最終日のおかゆだけで、それ以外は夫の方から発信は殆んど何もなかった。送ったLINEも既読にならないし、途中「死んでるのかな(笑)」と思ったくらいだ。

 

断食から帰った夫に数日ぶりで会った。確かにちょっとスッキリしている!聞くと3キロ痩せたそうだ。アトピーの調子も良くなっている。
夫がいない間に部屋の掃除をして、アトピーの為に日々パラパラとちらばる皮膚(いわゆる落屑(らくせつ)と呼ばれる粉状の皮膚の死骸)のベランダに落ちている分だけホウキで集めたら、フィルムケース一個ぶんくらいの量で、「もしあなたが帰ってこなかったらコレを遺骨というか遺皮膚として葬儀の場に提供しようと思っていた」と言ったら「ホラーですね。掃除ありがとう」と返事があり、(ああ元気ないつもの夫だ、無愛想で、それでいて選ぶ言葉が全部面白くて、心底癒されるわ)と安堵した。

夫は帰って来て終始機嫌がいい。基本的にそんなに気持ちに波があるタイプではないので当たり前といえば当たり前なんだが、断食から帰って来たばっかりにしては妙に俗っぽいというか、カジュアルというか、プリングルスやカマンベールチーズを頬張っている。よく体が受け付けるなとちょっと思っていた。なんかストイックな修羅場をくぐった感じがそれほどみてとれない。胃が受け付ける/受け付けないのレイヤーがちょっと怪しいのである。

そこは矢張り、私の勘も冴えていた。話をつめて聞くと、人参ジュースばっかりの生活に少し嫌気もさして来た2日目の夜中、別に禁止されているわけではないのでコンビニに行ったそうだ。そこで似たようなものならいいだろうと思って、スムージーという商品を買った、それに伴って食べ合わせたら絶対美味いだろう裂けるチーズも買っちゃったという事だった。

まあ、ちょっとした抜け出しはあったにせよ、デトックス効果としては一定体験できたようで、断食から20日目ほど経過したの今週に至っては「ジャンクフードが2食続くと、身体が真っ赤になる。添加物のせいかな。もう辞めよう」と口に出したりするようにもなって、口酸っぱい系で私が言ってることも一定学んでいるようなところがあり、コミュニケーションが楽になった。

 

なので、今回の断食道場は夫婦間の健康に関するコミュニケーションコストを大幅に下げたっていうのが一番の果実だった。

一定、覚醒感などの「変性意識に興味がある類のひと」が体験への興味を募らせるはずの断食道場。

その現場に「あなたも断食すべきよ」と、全く異なる思想を持ったひと(変性意識に興味がなさそうなひと)をエスコートしたいと目論んでいる人間は割といると思うので、私の悪妻術はちょっとは参考になると思う。

 

 

 

4歳男子と女の裸

4歳になる息子と時々連れ立って、銭湯に行く。まだひとりで入ることはできないので、女湯に同伴する。

よく行く場所は、休憩スペースにおもちゃやテレビもあったりしてとても快適なので、誘ったら二つ返事でついてくるし、遊べるから好きなのかなと思っていた。

ある日、日が暮れた銭湯の帰り道

「どうして、おふろやさん好きなの?」と訊いたら、

「だっておっぱいがいろいろあるから!」

と、とても小さな、しかし弾んだ声でつぶやいた。周りには私しかいなかった。
そのあと「おっぱいらららー♪」(オリジナルの曲)とボーイソプラノを震わせながら上機嫌で帰った。

ーーーー

おふろやさんにある女達の裸はヌード(nude)ではなくネイキッド(naked)だ。みんな一定の公共ルールを守りながら寛いでいる。
息子の言う通り、いろんなおっぱいがある。湯煙の中で肌色が多めなので全体的にふんわりしている。私は彼が走ったりしないように手を繋いで、ルーティンの巡り方で入浴する。
お気に入りは露天風呂だ。ドアを開けると、そこには少しのぼせて夜空を見上げながら、車座を少し崩して湯船の浅いところに座っている女が居て、殆ど性器が見えそうなポーズだったりする。
息子の視線のやりとりや言動については特に失礼ってこともなく、ただふんわりしたまあるい身体を自然な感じで見上げ、みとれていた。「おっぱいっていいなぁ」という気持ちが表情から伝わってくる。女は息子が入浴して30秒ほど経つとふと我に帰ってザアーっと上がった。ゆったりとしたサイズのお尻からポタポタお湯が滴るのを見送りながら、明らかに残念そうな顔を浮かべなんとなく取り繕うように、二人っきりになった私と脈略のない話題を一方的にペラペラと喋り出す。

4歳の男の子と風呂に行くのは本当に面白い。ただ面白いだけではなく、裸の女達にいろんな事を教わるのだ。ある日、裸になった解放感でシャワー台の所で息子が放尿したことがあった。私が目を離した一瞬の隙の出来事だった。甲高い声が風呂場中響いて、明らかに怒ってる。3人の裸の女達が息子の元に集まり、説教してくれていた。以来、自宅でも絶対にバスルームで放尿はしなくなった。
脱衣場ではしゃぐのを制するのに至っては、裸の女達の様々な<下ネタいじり>が効いているよう。中でも、「夕飯はソーセージにしようかなー」というのは本当にびびっていた。まだまだファンタジーの世界に生きている彼にとって、リアリズム満載の裸の女達の説教は怖くて仕方ない。しかし大好きなおっぱいがそこにはある。だから、耳鼻にちゃんとはいるのだ。飴と鞭である。