<支援者と、支援を受けるひとのあいだ> 松澤くれは プロデュース 舞台『わたしの、領分』

 

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紡ぎ出されるのは、療育センターで働く職員と、そこを利用する子どもとその家族の物語。

「療育」という言葉も、ひとによっては聞きなれない言葉かもしれない。医療と保育・教育を掛け合わせたことばであり、「療育センター」は全国各地に存在する。心身の育ちに特性のある、いわゆる発達障害や知的障害のあるひとの発達を促すために、専門家がケアや教育にあたっている場所だ。

発達障害」は近年その存在がとりだたされ、話題になることが増えた。発達障害に関する書籍やメディアも多く世に出されている。発達障害のあるひとに対する理解が浸透し、当事者へのケアも広がり出している一方、このケアする側、いわゆる支援者と呼ばれる人たちへの注視のされ方も変化している。

個人的な話になるが、不安障害によるパニック発作を抱えている友人がいる。電車に乗るときは安定剤の携帯が欠かせない。『わたしの、領分』を観終わって、ふと、彼女が訥々と「支援者」について、歯に衣着せぬ物言いで、話をしてくれたのを思い出した。

「”支援のなかの人”(療育/教育/福祉業界の従事者、スポンサー)って、言い方はアレかもしれないけど、”ダウン症の子は天使だから〜♪”とか、何のためらいもなく平気で言えてしまう人達でしょ。別にその類の人が支援することがおかしいよって話をしたいわけではない。無視して手も差し伸べない人より500倍ぐらい有り難いことだし。というか、ダウン症は天使って言ってるおばさんおじさんの排斥をきめ込んだたら、支援者なんてこの世からほとんどいなくなると思う…ただ、あまり語られない事だけれど、支援される側もそのカラクリってのを薄々気づいてはいて、薄皮一枚の倫理でその均衡が保たれているということ。ジレンマがあるとすればそこ」と。

この理屈にピンと来るひとは、この「わたしの、領分」の紡ぎ出すストーリーを自分ごととして観れるのかなー、それが私の率直な感想だ。


松澤くれはの世界は、女性性が色濃く出ている。彼自身は男性の身体を持っている演出家だが、そのことに対して非常に自覚的であるし、面白がる領域の閾値、そして他者性を持って身体を外化させ、いざモノローグを語らせる時には、この女性性が深く関係している演出家だと思う。松澤さんへのインタビューでも、「自分の生理的な身体から脱して、俳優の個と向き合うためには、男性のキャラクターを男性に演じさせようとするとどうしてもダメ出しもキツくなり、俳優との自律性を保てない時期があって苦しかった。それを変えてくれたのは、違う身体をもつものとの密なコミュニケーションからの身体性の探求だった。そこから道が開けた」と話していた。

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なので、今回の『わたしの、領分』で、療育施設で働く心理士・萩野が、仕事とプライベートの価値観の狭間で揺らぎ、自分自身の妊娠出産で悩んでもいるという実存を抱えるという筋書きが、物語、そしてセリフに身体性を持たせるうえで、非常に効いてくる。
療育施設で、萩野が担当するクライアントのA君の母親(発達障害の子を持ち療育に通わせながら、下の子を妊娠し、身体的にも精神的にも非常にしんどい状況を抱えている)と向き合うシーン。ヒステリックな母親にとうとうナイフまで突きつけられ、「はっきりしろよ!治るのか治らないのか。おなかの子まで抱えてる私の不安があんたにわかるのかよ」と凄まれ、命の危険を感じながら、萩野が言葉を探すシーン。ふと今まで冷静沈着で語ってきた「支援者」の顔を脱ぎ、大声で自分の辛さを漏らし、萩野自身の心情を晒し始める。
まるで「子宮という異物を抱えたエイリアン同士」の、内臓から発せられることばの数々…。あの空間はアドリブなのかもしれない。それなのに物凄く濃密だった。そこまで入り込めたのも、松澤くれは氏には、実は子宮があるんじゃない?と思う位に、それまでの台詞の選び方、演出があってこそだ。このラストシーンのリアリティを実現可能にした松澤組のひとたちの底力は計り知れないと思う。

 

発達障害児を、形態模写という形で舞台に立ちのぼらせ、私たちの前に提供しているというのは、社会的意義があると思う。(このお芝居の座組のスタッフもその事に気づいていて、今まさに実際に動き出している様である。)そもそも3dでこの世界を描こうとする事が蛮勇だし、抽象より具体、より緻密なデッサンの様な描き方で目の前にある事が圧巻である。場所と時を変えて様々な人の目に触れるべき作品だ。

正直この形態模写を観て、ショックを受ける人もいるだろう。そして「ああ、障害名がつくってこんなレベルなんだ。うちの子はココまでじゃないから大丈夫だ…。でもこりゃキッツいなあ。親父さんがキレるのも分かるし、あのお母さんが宗教チックなセラピストにすがりたくなるのも分かるよなあ」と、溜飲を下げ、ワイドショー的に、気楽に見ようとする事も出来ると思う。言って仕舞えばそれだって充分価値がある。そして、翻って自分自身の残酷な一面(隠れレイシスト的なもの)に気がついたりするのもそれはそれで発見だろうし、この文章の冒頭に書いた様に、「支援者と支援される側の薄皮一枚で保たれている不均衡」について想いを巡らすひともきっといることだろう。

 

いま小中学校の教育現場では、インクルーシブ教育が叫ばれ、導入されつつある。それと同時に、発達障害の支援を受ける側の人たちは「私たちを教材にしないでください」というイシューも、ポロポロと出始めている。その人たちに対して、支援する側は「そんなつもりではない、あなたの事を思って」という。それしか返事はない、とばかりに。このすれ違いはどこから来るのか?ダイバシティーに対する認識のずれのようなものがいろんなところで起きている。

<要するに、それは教材が足りないって事だよ。作ればいいじゃないか其れを!>

舞台「わたしの、領分」にはそんなパワーが溢れている。みんな知りたいし、ほんとは一緒に考えたいし、お前はお前俺は俺、私とあんたは違うって、時々弄りながらも、仲間としては「やっていく気持ち」携えて、いい感じで居られる社会。そんなの理想郷かもしれない。それでも夢は実現させたい。人間が進化する為の装置が演劇というコンテンツにまだまだあるんだ、ありありと見せてくれた舞台だった。